初投稿から約2週間が過ぎました。元旦が仕事始めで、それ以降は自宅と職場の往復で、タイムリーには特筆すべきネタがなかったというのが実情です。
だからと言って、何も書かずにいるというのもどうかと思ったので、過去でも少し振り返ってみます。あまり明るい話でもなく、また少し長いですが。
わしが生まれてすぐは、父親の仕事の都合で福岡市で暮らしていたこともありましたが、上の弟が生まれた2歳の時に父方の祖父母のいる長崎市に落ち着きました。
住んでいたのは長崎では一般的な斜面に貼りついたような*1二階建ての一戸建てでしたが、借家で当時の時点で築20年以上経っており、そこに両親とわしと弟、さらに父方の祖父母の6人*2が暮らしていました。既に高齢だった祖父母が一階、両親とわしら兄弟が二階で暮らし、食事は一階の居間で全員で、という感じでした。
父方の祖父は戦時中、南方のビルマ戦線に動員されていて*3戦地での負傷が元で片耳の聴力を失っており、またそのせいで戦後なかなか定職に就くことができなかったこともあり*4精神的にも不安定で酒乱でした。わしが物心つく頃も虫の何所が悪い日など祖母や母に大声で当たり散らしていました。父はわしに
「お前はせっかくこんな平和な時代に生まれてきたんだから、あんな風になったら絶対にいかん」
と何かある度に言っていたものです。おかげで、わしは祖父の事は恐いと思っても、一度も尊敬することはありませんでした。
祖母は祖父の1歳年下で、祖父とはいとこの関係でした。結婚して直ぐに祖父は徴兵されたため、夫婦生活は3年少々空白になり、生還してきたと思ったら戦争の後遺症でまともな生活もままならない。父が生まれてから幼少期にかけてからは、極貧生活だったといいます。*5祖母はとにかくわしら孫たちに対しては心配症で過保護でした。両親に隠れて菓子パンを買い与え、わしが小学校に入学して間もない頃にはほぼ毎日のように校門まで迎えに来ていたものです。そればかりか、心配のあまり両親に知られたら嫌なことまで両親に告げ口される始末で、後になって母に
「これ以上おばあちゃんを心配させないでっ!」
と怒られたことも数知れず。
父は祖父母の一人息子で、生まれた時点では親戚の男子は皆徴兵されて戦地にて戦死、残った女子や幼少の親戚もほとんどが長崎原爆で被爆死しており、言うなれば最後の跡取りでした。運良く頭脳明晰だった父は、塾や予備校の助けも借りずに幼少期から成績は学年トップクラス、高校も長崎県内トップ高を卒業し*6その後、某難関国立大学理学部を大学院まで修了し、大手企業で企業研究員として働いていました。祖父母の頃には考えられなかったエリートコースだったことで、祖母や母にはつらく当たり散らしていた祖父でさえ、父には頭が上がらず、当然のように祖母からも息子としてというより、むしろ畏敬の目で見られていました。
母は長崎県島原市出身で、母方の祖父は島原市職員の所謂公務員家庭育ちで、中流以上の環境でした。福岡の短大を卒業後、2年間長崎市で保育士として働いた後に父と結婚しました。両親の馴れ初めについては長年分からなかったのですが、祖母が亡くなった後、母方の大叔父から
「お父さんの方のお婆ちゃんが、会社でも研究ばかりしているお父さんを心配して、このままでは家が途絶えてしまう、早く跡取りを作ってもらわんと、とよさげな女の人を探し回って探し当ててお見合いさせたのがあんたのお母さんやったんよ。まあ、お舅さんも姑さんもあんなんで大変やったろうけど」
と聞きました。
そんなわけで、わしは長男として待望の跡取りとして、家族の期待を一身に受けて育っていくわけでしたが、その期待がやがてわしの半生に暗い影を落とすことになるわけです。
これ以上暗い話を続けるのもどうかと思うので、ここまでにします。読んでくださった方ありがとうございました。
ふさわしい写真がないので取り敢えず笑